「ヘブライ語とギリシア語の研鑽を避けて通れない」
きつねは言った。

「パウロ書簡をどう扱うか、どう捉えるか」はとても重要な問題なんです。 エノク書を戯言だといって排除したのだから、パウロをキリスト教の使徒と認めず、パウロの本質をネオユダヤ教とでもいうべきものであると見做し、パウロ書簡はイデア論の戯言だといって、パウロ書簡すべてを聖書から排除するというアプローチがあっても不思議ではないのです。

パウロの功績は偉大ですが、パウロの強大な権威によって、パウロの思想が新約聖書にねじ込まれたという見立ては否定できないのです。現在のキリスト教がパウロ教と呼ばれたりする所以です。

「イデア論の混入を聖書から排除してみる」というアプローチがあるように、「パウロ書簡を無いものとして新約聖書を読んでみる」という実験は試してみる価値があります。

「ヨハネのみ」というヨハネ福音書を重視、優先するという姿勢は新約聖書へのフォーカスをぼかさないメソッドの一つでしょう。 聖書をすべてあれこれ読もうとするとわけがわからなくなりますね。 旧約聖書を新約聖書と同格に扱って読むという姿勢もフォーカスを激しくぼかしますね。 ユダヤ教徒でないのなら旧約を読み込む必要はないし、旧約に囚われてしまうと、キリスト教のエッセンスが見えなくなる、ということも言えます。

しかし、ジョン・コレットのパウロ書簡に関する霊的解釈方法にとても共感できるのですが、これってまさにワンネスですね。

topic: philosophy
first posted: 2017-02-27 14:28:05
last modified: 2017-02-28 14:31:40