虎の巻に首っ引きなシンボルの解釈者に終止して満足しないこと。それでは誰がやっても同じ。ベートーヴェンの交響曲5番のモチーフを「この音は運命がドアを叩いていることを表現しているのだ」と解釈して聴いたつもりになっているのと同じ。タロットは占術である。命術ではない。タロットを「誰がやっても同じ結果にならなければならない命術」にしてしまったら、もうタロットとはいえない。自分はどこにいますか? 自分の役割はなんですか?シンボルとは解釈本無しで機能しないものなのですか?シンボルそのものに波動的なフォースがありうると考えるのが自然だし、そうでなければ、そのようなものはシンボルといえない。真のシンボルを仕込まれたタロットデッキが真のタロットデッキになりうる。真のタロットデッキであるには、ただの紙であるカードへの魔術的ななにかの封入なり介入が避けられない。その有無がタロットの魔力といわれるものになる。魔力を実際にもっていると認められているタロットデッキが残っていく。肝心なことは、魔力は最終的にそのタロットデッキの使い手が起こしている。魔力を持った真のタロットデッキがすべてやってくれるのなら、これまた誰がやっても同じになってしまう。良いツールと良い使い手がそろったとき、魔力が生まれる。タロットのセッションは魔術のセッションなのである。真のタロットリーダーならそのことはわかってる。しかしそれをおおっぴらに言ってしまうと、お客さんがひくから言わないだけだ。おおげさな魔術を演出したがるとすれば、魔力に自信がないからだ。とにかく、シンボルとは自立して機能するものかどうか。そこをタロットリーダーがどう思っているかが問題だ。シンボルをどう使うのかということになってくる。使い手次第だ。

キツネは言った。

topic: philosophy
first posted: 2016-09-25 11:57:44
last modified: 2016-09-28 08:40:14