(かきかけです。調べものの参考にはなりません :)

バージョン問題(異稿問題)はべつに難しくない。 誰がいつ何をしたか、丁寧に正確に書かないから混乱する。 出版社と校訂者と改訂者をきちんと区別し時系列を明確に書かかないといけない。 文献に誤記がよくあることも困る。 「ハース版」とか「エーザー版」とか「ノーヴァク版」とか横着な表現もよくない。 ハースとかノーヴァクなんて情報はとりあえず不要です。 そんな余計な情報を付けて書くからわかりにくい。

「稿は自筆譜のバージョン、版は出版譜のエディションを意味する」ときちんと決めていないことも混乱を生じさせる。 第3番なら、ちゃんと 「第3番第1稿」「第3番第2稿」「第3番第3稿原典版」「第3番第3稿改訂版」 と書かなければ不正確です。

ようするにややこしくなる理由は、
(1)第3番の場合、出版譜が6種類ある。(アダージョ1876 の楽譜も数えれば 7種類)
(2)指揮者は出版譜の折衷や改変を行うことがある。
(3)音楽学者の文章が明解ではない。
(4)間違いや誤記がよくある。
(5)版という言葉が曖昧に使われる。原典版という言葉を意味不明に使われている場合がある。

CD に記述されている版と演奏に使われている版が違うことがある。ブックレットの誤記もありうる。 たとえばハイティンク/ウィーンはエーザー版と書かれているが、何度聴いても第3楽章スケルツォにコーダ(終結部)のようなものを聴ける。エーザーを使ったけどコーダも入れてみたかった気分のハイティンクだったのか、単なる誤記か。指揮者独自の改変を行うこともある。というかそれが指揮者の腕のみせどころでもある。 改変している場合は採用した稿をあえて明記しないこともある。そういうことを気にせずに聴いてほしいという願いもある。なのにリスナーがこれはノーヴァクIII/2と思われるとか言ってみても無駄。

以下、稿とは自筆譜のバージョン、版とは出版譜のエディションを意味します。
ようするに、自筆譜は3つ、出版譜は6つ存在する。
校訂者はハース、エーザー、ノーヴァクの3人。
改訂者はシャルク、マーラー。
出版者はレティヒ。
出版譜の全集は国際ブルックナー協会が出したものが新旧 2つ。
旧全集で校訂を行ったのがハース。
新全集で校訂を行ったのがノーヴァク。
第3番は旧全集で未刊のままだった。出版の前にハースが失脚した。 ノーヴァクの校訂については批判もある。 ハースの校訂は基本的に厳格で信頼性が高いが、自分の作曲をしこんだ部分もある。 そんなハースのことをノーヴァクは知っていたかもしれない。

出版譜は
第1稿によるノーヴァク校訂新全集版 III/1 (1977年に出版)
第2稿によるレティヒ社第1版 (1878年に出版)
第2稿によるエーザー校訂版 (1950年に出版)(未刊に終わったハース校訂の後継版)
第2稿によるノーヴァク校訂新全集版 III/2 (1981年に出版)
第3稿によるレティヒ社第2版 (1890 年に出版)(シャルク改訂版いわゆる第3稿改訂版)
第3稿によるノーヴァク校訂新全集版 III/3 (1957 年に出版)(いわゆる第3稿原典版)
が存在する。
アダージョには第1.5稿とも呼べる 1876年稿が存在する。これはノーヴァク校訂新全集の付録として出版譜になっている。 レティヒ社の第2版はシャルクが勝手にいじっているので改訂版と呼ばれ評判が良くない。 第3稿にはマーラーも反対した。第3稿はそもそも出来が良くない。ブルックナーは乗り気ではなかった。第2稿より完成度が落ちている。最終形態というより、いじりすぎて壊してしまっている。本質がずたずたになったわりに得るものが少ない。 しかし第3稿という余計なものを作る必要がなかったとは簡単に言えない。第3稿は後年の交響曲の習作だと考えれば、この時点でこれをやったことを徒労だとは言えない。ただし公表するのは第2稿までにすべきだったかもしれない。

楽譜には音楽に必要な情報のすべてが書かれているわけではない。というか一部しか書かれていない。音楽の真髄とか心のようなものはもちろん、テンポとか構造とか骨格とか響きとか楽譜に求めても無い。楽譜どおりやれば作曲家の意図した音楽になるというものではない。まったく同じ演奏を繰り返したとしても、ホールと聴衆が違えば同じ結果にならない。 聴衆も音楽を構成する要素のひとつ。ゲネプロでは最高だったのに本番ではうまくいかない。作曲家によってはすべてを記述しようと注釈とかで努力する人もいる。ブルックナーはけっこういい加減であり、演奏が特に難しい。指揮者のセンスと裁量に委ねられているところが多すぎる。

ブルックナーのような芸術はオーディオの性能さえ要求する。 チェリビダッケが録音再生を否定したのは、あの当時の録音再生の性能が低すぎたということかもしれない。LP でブルックナーなんて聴いてられない。 現代の SACD マルチチャンネルをチェリビダッケに聴かせてあげたい。 現代の録音再生技術はかなりよくなっているので、下手な演奏会に行ってへんな場所で聴くよりは自宅で SACD 聴いてるほうが感動するということはよくある。悲しいかなそれは事実です。 CD でチェリビダッケを聴いていると、この程度の録音ではチェリビダッケがあの空間に存在させたこと(存在した現象)がほとんど再生されていないだろうと推察します。それをリスナーは補完して聴くしかない。チェリビダッケが遅くて間延びして聞こえるなら録音が悪いせいです。あの空間に現れていた気というか現象が再生されていないのだから。気を慈しむようなテンポの遅さだけが抜け殻のように残っているだけに聞こえる。チェリビダッケはこれを嫌った。フルトヴェングラーのような芸術は音が悪くてもなんとかなる。フルトヴェングラーで人気のあるものは音が悪くても大丈夫なような音楽ばかり。フルトヴェングラーを生で聴いた人の証言によれば、録音のように、ごつごつも激しくもないらしい。チェリビダッケのようなクラスの指揮者がごろごろいない以上、ブルックナーの受容にはオーディオの進歩が不可欠で、今ようやくその地盤が用意されてきたわけで、ブルックナーの受容はこれからが本番とも言える。その幕開けとなりそうなのがシモーネ ヤングのSACD盤です。

いろいろ手を入れても良くなりはしません。 道草とか余計なことに見えても、ちゃんと構成上の意味がある。 そういうところをなくしてしまうと、つぎはぎっぽい、繰り返しが多いだけのワンパターンで、なにがやりたいのかよく伝わらない、共感共鳴の低いものになる。 最初の稿はたいていインスピレーションで書かれているが、それを後でいじればいじるほど手垢がついてくるだけというか、輝きが雲っていくだけ。整理整頓はされるが芸術性は落ちていく。神が宿っている感じが無くなっていく。インスピレーションで書いたということは神がブルックナーを通して書いたとも言えるし、それを後でいじっている時のブルックナーは普通のおじさんかもしれない。

だから、ブルックナーを聴くなら、まず第3番の第1稿を聴いて欲しい。 これをブルックナー体験の基礎にして欲しい。ブルックナー宇宙のビッグバンが第3番です。ここからブルックナー宇宙が始まる。 インバル、ロジェストヴェンスキー、 シモーネ ヤングがおすすめ。 どれかひとつというならロジェストヴェンスキー。解説も秀逸。CDにインデックスを丁寧に入れている仕事ぶりに学術的な志しの高さを感じる。これが廃盤だという事実がいまのレコード業界の窮状を物語っている。

第2稿はまだ我慢できる。バランスがいいだけが取り柄で音楽的な魅力は第1稿より落ちる。いかにもうまくまとめてみましたという感じが終始付きまとうので、安定はしているが燃焼温度が低く、輝きが鈍く、陶酔感、高揚感、疾走感、自由感に欠ける。安定感というのは芸術にとって良いものでは別にない。「芸術は爆発だ」の立場ならやはり第1稿が優れている。 Teldec のバレンボイム/ベルリンは音質も演奏もいいのですが、第2稿です。聴いて判断した限りエーザー版です。 第2稿は最もバランスが取れているので、バレンボイムは音質と演奏ともに備えたバランス最高の一枚といえます。バレンボイムのうなり声もしっかり録音されているのが気になるところ。 当然ながら、ワーグナーのうまい人はブルックナーもうまい。

第3稿はわざとらしい。 一度解体して組み直したよう。ちぐはぐで痛々しい。何かやろうとして失敗している感じ。第3番の魅力である、明解でストレートな輝き、かっこよさがなくなってしまって、ぼろぼろの音楽になってしまっているのを、ひいきめに見ても、円熟した筆致とか、スッキリしたとは思わない。

第2稿の二つの版には、第3楽章スケルツォのコーダ(終結部)があるならノーヴァク新全集版と判断できる。第1楽章の小節数も違うらしいが、そんなことは楽譜を見ながら聴かないとわからない。 エーザー校訂版なら、ハイティンク/アムステルダムコンセルトヘボウ、 クーベリック/バイエルン放響、 ロジェストヴェンスキー/ソビエト国立文化省交響楽団、 バレンボイム/ベルリンは。 ノーヴァク新全集版 III/2 なら、 ハイティンク/ウィーンが最初の録音。未確認ですがショルティ、ギーレン、ヴィルトナーもそうらしい。 ハイティンク/ウィーンのCDにはエーザーと書いている。誤記なのか、エーザー版+第3楽章のコーダが正解なのか、わからない。 出版の歴史から言ってノーヴァク新全集版 III/2 を選択するのが新しいもの好きかもしれない。ノーヴァク新全集版 III/2 の録音は希少なので第3楽章のコーダを聴く機会は少ない。 ここに置くコーダを後付で作曲してはみたものの、コーダはないほうがいいというのがブルックナーの真意だとされている。したがってエーザーはそれに従って校訂した。たしかにここにあんなコーダを入れるのはかっこわるいと思う。とってつけたよう。第4楽章へのつながりがちぐはぐになる。第4楽章へなだれこんでいく、ぞくぞく感がなくなる。やはり後からいじっても良くはならない。

へんなとこからアプローチするとブルックナーを退屈とかうるさいとか長いだけとか誤解してしまう。そもそも退屈とかうるさいとか思われた時点でその演奏は失敗でしょう。 五味康祐さんはブルックナーを聴いていられなかったそうですが、ろくな演奏、録音、再生装置が少なかった時代のせいもあるでしょう。あの当時はブルックナーを粗製乱造した感もある。ベートーヴェンの次はブルックナーなんて短絡的な営業戦略も業界にあった。ベートーヴェンで入門して、次にいきなり下手なブルックナーなんて聴かせたら、拒否反応を起こされてもしかたありません。 まずいブルックナーほどまずいものはない。うまいブルックナーほどうまいものはない。

ちなみに第4番は第2稿が決定的なのであまり迷うことはありません。 第1稿と第2稿はまったく別の曲と言えるほど違う。 いじったというよりほとんど書き直したという感じなので、どちらも初稿と言えなくもない。 だから第4番は第4.0番、第4.1番に分けたほうがいい。

しかしD.R.デイヴィスの第3番が、なぜ、今さら第3稿で録音されたのか謎。 後で本命の第2稿、第1稿を出すつもりで予行演習も兼ねた挨拶がわりの録音かな。

あくまでも消去法での決定盤はブロムシュテット 2010 年録音の SACD。ただしブルックナー演奏で拍手をカットしないという信じられない編集に我慢する必要があります。ブルックナーの CD に拍手を入れるような感性なのかこのプロデューサーは、という気持ちが必ず残ります。

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first posted: 2012-08-12 23:08:41
last modified: 2016-07-31 13:13:09