ある本から引用してみます。先入観なしで読んでほしいのであえて実名は伏せます。 作曲家 X の Y について書かれたものです。

いったい X はどのような目的を胸に秘めて、かなり長大な、ものによってはいくぶん意味の汲み取りにくい、そしてあまり努力が報われそうにない一群の Y を書いたのだろう? (中略)
しかし X の Y ときたら、他人に聴かせても長すぎて退屈されるだけだし、音楽的に難しすぎるし、社会性なんてものはほとんど皆無である。じゃあ X は、いったいどのような場所を、どのような音楽的所在地を頭に設定して、数多くの Y を書いたのか? そのあたりが、僕としては長いあいだうまく理解できなかったのだ。
でもあるとき X の伝記を読んでみて、ようやく謎が解けた。実に簡単な話で、X は Y を書くとき、頭の中にどのような場所も設定していなかったのだ。彼はただ単純に「そういうものが書きたかったから」書いたのだ。お金のためでもないし、名誉のためでもない。頭に浮かんでくる楽想を、彼はただそのまま楽譜に移していっただけのことなのだ。もし自分が書いた音楽にみんなが退屈したとしても、とくにその価値を認めてもらえなかったとしても、その結果生活に困窮したとしても、それは X にとっては二義的な問題に過ぎなかった。彼は心に溜まってくるものを、ただ自然に、個人的な柄杓で汲み出していただけなのだ。(中略)
メロディーや和音は、アルプス山系の小川の雪解け水のように、さらさらと彼の頭に浮かんできた。 (中略)

でもなにはともあれ、僕は X の Y が個人的に好きだ。今のところ(というのはとくにこの五、六年のことだけれど)ベートーヴェンやモーツァルトの Y よりもはるかに頻繁に聴いていると思う。どうしてかとあらためて質問されると簡単には答えにくいのだが、結局のところ、X の Y の持つ「冗長さ」や「まとまりのなさ」や「はた迷惑さ」が、今の僕の心に馴染むからかもしれない。そこにはベートーヴェンやモーツァルトの Y にはない、心の自由なばらけのようなものがある。スピーカーの前に座り、目を閉じて音楽を聴いていると、そこにある世界の内側に向かって自然に、個人的に、足を踏み入れていくことができる。音を素手ですくい上げて、そこから自分なりの音楽的情景を、気の向くままに描いていける。そのような、いわば融通無碍な世界が、そこにはあるのだ。
(中略) 彼の音楽が醸し出す心地よいエーテルの中に、損得抜きで浸らせてくれる。そこにあるのは、中毒的と言ってもいいような特殊な感覚である。
(中略) 我々はあらゆる芸術の領域において、ますます「ソフトな混沌」を求める傾向にあるようだ。ベートーヴェンの近代的構築性(構築的近代性)や、モーツァルトの完結的天上性(天上的完結性)は、ときとして我々を--それらを文句なく素晴らしいとは認めつつも--息苦しくさせる。そして年齢的なことを言えば、僕は、これもあらゆる芸術の領域において、より「ゆるく、シンプルな意味で難解な」テキストを求める傾向にあるかもしれない。 (中略)

(中略)このあいだ吉田秀和氏の著書を読んでいて、たまたま Z についての興味深い言及を見かけた。 この曲の録音に体する評論として書かれたものである。ちょっと引用してみる。

「Z の方はどうも苦手だった。第一楽章からして、威勢よく始まりはするものの、何かごたごたしていてつかみにくい。おもしろい楽想はいろいろとあるのだが、いろいろと往ったり来たりして、結局どこに行きたいのか、と問いただしたくなる。どうして Z はこんなに長いのかと、歯がゆくなる。X の病気の一つといったらいけないかもしれないが、Z は冗漫に過ぎる。 こんなわけで私はこの Z は敬遠して、こちらからわざわざきく機会を求めるようなことはしないで来た。だが今思い切って、きいてみて、はじめて気がついた。これは恐ろしいほど、心の中からほとばしる出る「精神的な力」がそのまま音楽になったような曲なのである。(後略)」(「今月の一枚」 新潮社 2001年)

(中略)この Z はたしかに、一般的な意味合いでの名曲ではない。構築は甘いし、全体の意味が見えにくいし、とりとめもなく長すぎる。しかしそこには、そのような瑕疵を補ってあまりある、奥深い精神の率直なほとばしりがある。そのほとばしりが、作者にもうまく統御できないまま、パイプの漏水のようにあちこちで勝手に噴出し、Y というシステムの統合性を崩してしまっているわけだ。しかし逆説的に言えば、Z はまさにそのような身も世もない崩れ方によって、世界の「裏を叩きまくる」ような、独自の普遍性を獲得しているような気がする。結局のところ、この作品には、僕が X の Y に惹きつけられる理由が、もっとも純粋なかたちで凝縮されている--あるいはより正確に表現するなら拡散しているということになるのだろうか--ような気がするのだ。

(「意味がなければスイングはない」村上春樹 文藝春秋 2005年)

X = ブルックナー、Y = 交響曲とすれば、まさしくブルックナーについて書かれた文章として通じる。 しかも極めて的を得ている。 じつはこれ、シューベルトのピアノソナタについて書かれたもので、 X = シューベルト、Y = ピアノソナタ、Z = ピアノソナタ 17番です。

仕事柄、ブルックナーを聴けない人(良く言えば敬遠している人)をたくさん観察してきました。 わかってきたことは、シューベルトを聴けない人はブルックナーも聴けないということなのです。 シューベルトへの接し方がわからない人は、ブルックナーへの接し方もわからない。 シューベルトを退屈だという人はたいてい、ブルックナーは「でたらめで冗長」だという。

「シューベルトはなにが言いたいのかよくわからない」とか「ブルックナーはなにがしたいのかよくわからない」と言う人が多い。あの吉田秀和氏でさえそういう気配なのだから、普通の一般聴衆がそうであるのはもうしかたないかもしれない。

シューベルトはべつに言いたい事なんか無い。ブルックナーはべつにやってのけたいことなんかない。 そこには純訥なインスピレーションが「ただ、ある」。 つまり観客を想定していない。観客のために書いていない。 天使や妖精や愛する神様と戯れているだけ。 私たちはそれを眺める事が許されているだけ。 戯れる阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら戯れなきゃ損。 ああしてやろうとか、こうしてやろうとか、うまくまとめて、きれいな箱に入れて、きれいに包んで、リボンもかけて、なんてことは考えられていない。

いわゆる生(なま)なのだ。 これはガストロノミーにも通じる。 本物の食通は料理人がいじり回した料理を好まない。作為的なことを喜ばない。 音楽鑑賞もそれと同じです。 ただし、戯れるのに必要な体力と気力と音楽情報処理能力が、シューベルトとブルックナーでは桁違いです。 シューベルトのピアノ・ソナタ17番が長いとか言ってるようではブルックナーが聴ける日はまだまだ遠いでしょう。 シューベルトの良さを判る人がブルックナーまでなかなか聴けないのは、趣味の問題にすり替えられがちですが、気力と体力と音楽情報処理能力の不足の問題といっていいかもしれない。「シューベルトで十分、ブルックナーまで要らない」という人がほとんどでしょうけれども。「冗長さ、まとまりの無さ、はた迷惑さ」のスケールが、シューベルトのそれと比べると、ブルックナーでは宇宙的規模なのです。

村上春樹氏についてどうのこうの言いたい文芸関係者は、本ばかり読んでいないでクラシック音楽をもっと聴いたらいかがでしょうか。 すくなくとも村上さんと同じくらいの量と質で音楽を聴くという生活も営まずに、村上さんの本の字面だけ追ってみたところで、共鳴や共感は起きないと思います。

今日的混沌性と女装化の波

なぜピアノか

ピアノの音色 VS ヴァイオリンの音色

topic: classic
first posted: 2011-06-30 11:06:32
last modified: 2011-07-01 13:01:11