英語の多読メソッドをそのままクラシック音楽鑑賞に適用できるのかという問題。 ブルックナーやショスタコーヴィチが「Level 6」=「最上級のクラシック音楽鑑賞力」=「情報量の多い、情報転送レートの高い、複雑で大量の音響信号をこぼさずにリアルタイムに処理できる能力」を要求するとして、 どうすればそのレベルの鑑賞力が身に付くのか。 そもそも英語の多読多聴メソッドを単純に音楽鑑賞に適用できるのか。

「やさしいものからたくさん聴く」 「とにかく接触面積を増やす」「浸る時間を増やす」 「家ではテレビなんか付けずにクラシック音楽をBGMとして常に流しておく」 というのは間違ってはいないはず。

ベートーヴェンやブラームスを聴いていて退屈だと思うようになって来たら、 もうそのクラスは卒業するレベルに達したということでいいのではないでしょうか。 それまではベートーヴェンやブラームスを聴くしかないかというと、 ベートーヴェンだけを多聴してもクラシック音楽鑑賞力は付きません。 実例がありますからはっきりそう断言できます。

臨界点を超えたときに初めて劇的にメタモルフォーズというか。 相が変わるというか。 とにかくインプットの量と種類を増やし浸ること。 その効果は臨界点を超えるまで現れない。

やはりいろんな音楽を聴かないといけない。 それがメタ言語としての音楽のボキャブラリーを増やすことになる。 その音楽を「読める」レベルとは、単純に言って「涙が出る、鳥肌が立つ、背筋に電流が流れる」という生理的な現象が起きることです。「いい音楽だな」「素敵な音楽だな」「癒される音楽だな」と感じるだけのレベルでは全然だめです。そんなレベルではまだ頭で音楽を聴いています。クラシック音楽はまだ「美しい調度品」のレベルです。ぶちまけて言うと、音楽を眺めて「いいな」「きれいな」「いごこちがいいな」のレベルでは、音楽とセックスするところまで肉迫したり共有したりしていないわけです。

好き嫌いや趣味の問題にすり替えたり、逃げたりしていると、 いつまでたってもクラシック音楽鑑賞力は付きません。 スイーツばかり食べていては本当の体力は付かないでしょう。

しかし苦行には効果がない。 背伸びした苦行など無理筋はいけません。

作曲家と「メタ言語」を共有しないと共鳴は生じない。 メタ言語に Level 0 から Level 6 くらいがあると明確に想定してみてもいいのではないか。 ブルックナーとショスタコーヴィチが Level 6 で、 Level 0 がロッシーニ、ということにしておきます。 つまりクラシック音楽はロッシーニから聴こうというのは間違ってはいない道のひとつです。 これはただの思いつきではありません。 作曲家がどんな音楽から聴き始め、どんな音楽を聴いて育ったかを調べれば見えてくることです。

耳から入ってくる音響信号をリアルタイムに処理できる脳の力と、 作曲家と音楽メタ言語を共有することで生じるヒアリング力。 その両輪のうえに成立する芸術鑑賞の世界は、人が人であるために必要な「目にはみえないけれどもリアルな世界」です。

topic: classic
first posted: 2011-06-10 08:58:45
last modified: 2011-07-12 22:15:17