わかりやすいメロディとか下世話なドラマとか押し付けがましいストーリーとかのない、透明な世界。 そこには響きがあるだけ。透明と言ってもショパンの夜想曲やグリークのような「ピアノでぽろぽろと少ない音で紡ぐメロディの透明感」の「基本的に単音の世界」には「響き」がありません。そのレベルの音楽鑑賞とは違う異次元の「響きの透明感の体験」とは何か。フルスペックな本物の響きはなぜ透明になっていくのか。透明とはなにか。何が消え去って透明なのか。

響きとは何か。

答えは簡単でもあり難解でもあります。 量子力学も含んでくる問題です。 音とは。在るもの。羽織るもの。着るもの。wearable なもの。 響き。響きとして「在る」物体。響きとして「在る」精神。夢。空想。抽象。超越的一元論。 響きとは何か。 ブルックナーが聴けるということは、そういうことが無意識で理解できているということです。 ブルックナーの響きとは何か。

「音楽とは着るものだ」という仮説(対機説法)

音楽の聴き方でもっともわかりやすい説明はそれでしょう。「乗るものだ」と言っている場合と結局同じことを言っています。 下世話な例えですと、いわゆるモビルスーツですか。着るものであり乗るもであるみたいな。 「音楽とは感じるものだ」という場合はもうすこし階梯が上になります。 「着る」「乗る」ができるようになってからのことになります。 「美術は着るものである」というのは以前から一部で言われていたことです。 それは音楽にも適用できるわけです。 逆かもしれません。音楽は着るものだと言った人が先か、美術は着るものだといった人が先か、私は知りません。

着るものであるならば、最も大きな問題は「サイズの問題」ということになります。 好きとか嫌いとか言う前にサイズの合わないものは着ようがないわけです。 いくら憧れても着れないものは着れない。 クラシック音楽鑑賞に失敗している場合、「サイズが合わない」レベルで頓挫している事例が多いのではないかという気がします。趣味とか素養とか才能とか運動神経とか、そんなことが関係してくるところまでいっていないのです。 この場合にできることは、自分のサイズにあったものを着るか、自分のサイズを変えるか、そのどちらかしかありません。 このブログで散々書いていることはつまり「自分のサイズを変える方法」なのです。 ゲシュタルトがどうのこうのと小難しいこともようするにそういうことです。 音楽学者の書いた音楽史の新書を読むなどという小手先や付け焼き刃ではないもっと根源的で基礎的な「音楽の聴き方」。 好き嫌いリストとか作曲家や指揮者や演奏家のおっかけ日記なら誰でも書けます。 自分が美しいサイズやスタイルになれば、美しい音楽を着ることができるようになります。 そのためには努力が必要です。 その努力は報われます。 いままで感じることのできなかった美しい世界が見えるようになります。 精神の世界が広がるのです。 ということは現実の世界も広がるのです。 生きていて楽しくなります。

ベートーヴェンの CD の単なるコレクターはクラシック音楽鑑賞に失敗している場合に入ります。コレクターであることと鑑賞者であることになんの関係もありません。

着るものであるならば、馬子にも衣装という問題もあります。 ある意味において「音楽鑑賞での馬子にも衣装」はありえないという気がしています。 とにかく着させておけばというのは無理です。それほど簡単ではありません。 本人が努力して練習しないと無理なのです。 もっとも基本的な練習とは「とにかく聴く、いっぱい聴く」ことです。 そういう意味では「馬子にも衣装」ということがあるかもしれません。 でも、いっぱい聴いたからといってクラシックが聴けるようになったという事例を知りません。 なにか超えられない壁や断絶のようなものを否定できません。 これに関してはとりあえずな結論を出せません。 DNA 的で人種的なことや、臨界期の問題なども関係してきます。

topic: classic
first posted: 2011-04-22 18:07:22
last modified: 2011-04-22 20:57:18