「美・音楽」ではなくて「美音・学」。 クラシック音楽鑑賞力をつけるには言語学習におけるメソッドが参考になるのではないか。 音楽をメタ言語だと考えればそれは自然なことです。 英語脳の育成のようなメソッドが、音楽脳の育成メソッドとして流用できるのではないか。 音楽鑑賞は美術鑑賞でも文学鑑賞でもガストロノミーでもない。もっとも近いのは言語処理やスポーツではないのか。 そうであれば、音楽脳育成の黄金ルールその1は「とにかく聴くこと」ということになります。 脳が同時に処理できる音の数を増やすこと。 脳がフル回転しても、耳から入ってくる怒濤の音楽情報を演算処理しきれなければ、音の一部しか認識できていません。 そのレベルでもそれなりの鑑賞はできるでしょうが、それなりに過ぎません。 そういう意味では「音楽を聴くことは頭を使うこと」「音楽鑑賞は運動神経の仕事」ということになります。 結局、耳ではなく、脳で聴いているわけです。 「たんなる空気の波」に哀愁やらロマンやらを創出させているのは脳なんですから。 美術品なら赤は誰がみても赤、丸は誰がみても丸ですが、音楽はそんな簡単なことで済みません。 光も音も波であり波長が違うだけだから、美術鑑賞と音楽鑑賞は統一して扱えるとか、 赤は誰が見ても赤なのかということについてのクオリア方面からの疑義まで考慮すると、 話がたいへん長くなるのでここでは赤は赤、丸は丸ということにしますけれども、 音楽という芸術が完成品ではないというのはそういうことです。 音楽は聴く人の能力に応じて現れるのです。
妖精は信じている人の前にだけ現れることができます。
最終的に音楽を音楽として成立させているのは脳なのです。 音を「イメージや情感」にするには脳に構成力、想像力、共感力、共鳴力が必要なのです。 ベートーヴェンは聴けてもブルックナーが聴けないというのはそういうことです。 ブルックナーが聴けないということはベートーヴェンでさえじつはちゃんと聴けていないということです。

しかし「赤は誰が見ても赤なのか」という問題が、音楽鑑賞ではあきらかに起きています。 赤が赤として見えていない人と夕焼けの美しさを同じように共有することはできないわけです。 緑焼けでも奇麗だろうとは思いますけれども。 まあ普通に考えて、 美術館にある「赤い彫刻」が美術館の閉館後に照明を消されてもそこに完成品として「赤い彫刻」として存在しているのは間違いありません。 鑑賞者に関係なく完成品として存在している。 ここも問題になるところで、鑑賞者に関係なく常に存在してはいないかもしれない、鑑賞を止めた時点で物体は存在しなくなる、鑑賞を始めた時点で物体が現出するという説もあります。つまり物体はそもそも存在していない、物体は「もの」ではなくて、音のような「こと」であり、鑑賞者が「そこに在る」かのようにアイコンとして脳内に物体として認識しているだけだというわけです。 個人的にはこの説は考え過ぎではないかと思っています。 やはり鑑賞されなくなってもそれはそこに在ると思います。しかし簡単に否定できる説でもありません。 物体としてそこに存在しなくても波の情報としてはそこにあるかもしれません。 その情報がどこにどう記録されているのか、どこにどう「折り畳まれて」いるのかということになってくると、 ボームのホログラフィー仮説になってくるわけです。 そもそも物体とは何か。 物体も波であれば波である音も物体とどう違うのか。 ほんとにこの方面はハード・プロブレムです。

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first posted: 2011-04-17 20:36:07
last modified: 2011-04-19 22:30:18