運動感を楽しむ能力というのもブルックナー鑑賞にはとても必要なことです。 そこに楽しみというか芸術を感じられないと「ブルックナーはわからない」とか「不連続性を感じる」とか言って鑑賞に失敗します。運動感とは何かをわかりやすく知りたいときはまずアルザック・ラプソディーの DVD を見てください。

運動感は指揮者にも求められます。

2流の指揮者にはそれがないのです。 美音を磨くだけで精一杯です。 「木をみて森を見ずツアー」に終始します。 初心者は美音しか求めていないのでそんな指揮者でも初心者受けはします。 鑑賞者を「そこ」とか「彼岸」まで連れて行ってあげられないとしても、 「そこ」を知らない鑑賞者にとって、案内人の「そこへ連れて行ってあげられる能力」の不足が問題になることはありません。 しかし「美音とともに」「骨格となる運動感」を構築し表現できないと1流にはなれません。 CDをいっぱい出している指揮者にも1流は少ないのです。 1流がいつも演奏に大成功するわけでもありません。 大勢でやっている芸術です。 うまくいったときの演奏をもう一度やれといってもできることではない。 だからこそ、その録音は人類の宝となるのです。

運動感の構築とはなにか。

単なるリズム感やテンポの話ではありません。もっと複雑で高度です。 そしてそれは楽譜には書いてありません。 いまここでなぜこの加速度でこのベクトルなのか。 いまこの状態の全体の慣性でなにをやり、なにを準備するべきか。 いまなにをやり、やるべきでないか。 いまやったことが、どのくらい後で全体に影響を及ぼすか。 1流はそんなことを「瞬時に計算」し「連続して意識」し続けています。 目先のことしか見ていないのが2流です。 音の慣性を無視し勝手気ままで恣意的な加速減速を試みるようなのが2流です。 初心者に人気のある指揮者が、 チャイコフスキーではその2流さがあまり表面化しなかったけれど、 ショスタコーヴィチではそうはいかないということになります。

演奏が難しい曲というのは「運動感の構築」を要求します。

美音だけ出すならプロであれば簡単なことなのです。 ブルックナー演奏には美音の表現力はもちろん、多声と運動感の表現力も必要です。 ブルックナー鑑賞での稚拙さとは、美音やメロディーだけにとらわれ、多声や運動が表現している芸術的な情報量をまったく受け取れずに処理できていない状態ということです。 運動感の表現力はスケール感と質量感の表現に直接かかわってきます。 質量感やスケール感は運動感で表現するしかないのです。 それは「テンポやリズムがいい」というようなレベルよりはるかな高次における表現です。 音楽が無理矢理引きずられたり押されたりしている様では駄目で、 音楽が自らの意思で動いている様でなければそこに生命感や飛翔感や空間感(その世界の奥行き=パースペクティブ=世界感)は現れない。

たんなる感情の表現だけではない。

喜びとか悲しみとか勇気とか慰みとかいった感情表現だけなら、たんなるリズムやテンポやメロディーやハーモニーだけで表現できます。そんなレベルの芸術には「舞台として」「世界として」の「空間感」は必要ないのです。 初期のロマン主義がそれです。ベートーヴェンあたりがそうですが、ロマン主義としてはまだ稚拙です。 後期ロマン主義になってくると空間感を必要としてきます。 マーラーあたりがそうですが、まだその「空間」が狭くて世帯じみていて普通すぎる。 その空間が「ファンタジーの舞台や世界となる規模と次元」であることを必要とするのはブルックナーです。 だからブルックナーはいわゆるロマン主義ではない。後期ロマン主義の範疇に入るようなスケールではない。 マーラーはブルックナーの弟子とも言えますが、ブルックナーの後継ではない。筋が違う。 ワーグナーはブルックナーの師匠とも言えますが、ワーグナーの世界はまだスケールが小さく具象すぎる。 ブルックナーは馬鹿一代というか、あとにもさきにもこんなファンタジックで破天荒で型破りでスペクタキュラーでワイドスクリーンな音楽はありません。だから「4次元の音楽」とか「宇宙の音楽」といわれるのです。 人間世界の喜怒哀楽などアウトオブ眼中な世界が問答無用に提示される。 ブルックナー鑑賞とは「ブルックナー号に搭乗してそのファンタジーな世界を見て回り楽しむ趣味」ともいえます。 統一感、統合感。「失われた時とかその他」を求めるわくわく感。 ときめく一瞬。それを掴もうと試み続ける芸術。 「永遠の瞬間」の芸術。究極の美楽。儚い。

わーい、雪だ。

topic: classic
first posted: 2011-02-14 13:49:27
last modified: 2013-08-07 22:08:46