難しいとか判らないとか言う前に「音楽とのコミュニケーション能力」がどうなっていますか。 すべてが想定内、予定調和の中で苦悩しつつ大団円、そんな音楽だけでいいですか。 音楽に何を求めますか。 求めるということはこちらのわがままを通すということでもあります。 通ったら愉快、通らないなら不愉快、それではコミュニケーションといえません。 そんなので音楽鑑賞といえるのかという問題です。

音楽鑑賞に音楽史の知識など必要ありません。 鑑賞において音楽史の知識が必要な音楽など、しょせん本物ではありません。 音楽史はそれで飯を食っている音楽学者だけがやればよいのです。

音楽学者は「音楽鑑賞には音楽史の知識が必要」とか我田引水なことを必ず言いますから

だまされてはいけません。 テニスを習いたい人に「テニスをするにはまずテニスの歴史を知っておく必要がある」なんてことがありますか? 普通に考えてみてください。 テニスを習いたい人のサークルに 「嬉々としてテニスの歴史の蘊蓄を延々新書一冊分語りたがる文学部」がいるところを想像してみてください。 「テニスのボールを上手く打てないのはテニスの歴史に無知だから」なんて誰も思わないでしょう。 なのになぜ、クラシック音楽鑑賞入門に限って「歴史」を持ち出てくるんでしょうか。

音楽を聴くのは運動神経の作業です。 音楽を楽しめる楽しめない、音楽に乗れる乗れない、というのは脳のなかの音楽情報を扱う神経回路の処理能力の問題です。 だから「音楽を聴く」のはほとんど運動神経の話といってもいいわけです。 音楽史などずっとやっていると感覚がずれてしまっていくのです。 下手な入れ知恵は初心者の音楽鑑賞力の発育にとって弊害になりえます。 音楽学者の我田引水な新書などにつき合ってあげる必要はありません。

哲学科にて。
哲学の歴史ばかり学んできた。
哲学の歴史には詳しくなった。
けれど自分では一切哲学していない。
哲学はするものであって学ぶものではない。 音楽はするものであって学ぶものではない。 「楽器を弾く」も「音楽を聴く」もどちらも「音楽をする」です。 音楽を聴くというのは音楽の成立における最終ステージです。 鑑賞者は完成品をありがたく頂戴するだけの立場ではありません。 音楽は完成品ではありません。 音楽は「もの」ではありません。「こと」です。

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first posted: 2010-12-12 23:16:54
last modified: 2010-12-19 23:44:17