音楽を聴いて「判らない」という言い方に、いろんなヒントが隠れています。

まず「音が気持ちいい」レベルでも快感を得る事はできます。 これは身体的で生理的な満足のレベルです。 オーディオマニアはこのレベルで彷徨いがちです。

次に「耳から入った音楽を、音の連続や模様として認識しそこに美を感じる」レベルがあります。 知識欲旺盛な博識家によくあるパターン。 音は「筋がひとつだけで一方向の連続した情報」 つまり「シングルスレッドでシリーズな情報」として処理されます。 しかしこれは、 「耳から入った音をあくまでも音の連続や模様としてしか認識できない」 ことでもあるので、 このレベルで止まってしまう人は、 「ある種の共感覚の欠如」が原因であると仮定するならば、 処方は無く、このレベルより上には行けないとも言えます。 音の集合を、「変容し、立ち現れ、わき上がってくる音楽」として聴けない。 「判らない」というのは、いわゆる「頭」「理性」で処理しようとしています。 音楽を聴くより本を読む方が好きなタイプでしょう。 本人はそう思ってなくても実は無理に音楽を聴いていますから、 よこしまな動機でクラシック音楽にアプローチしているということでもあり、 音楽がなくてもべつに困らないタイプでもありますから、 満足のレベルが「頭」レベルにとどまります。

「音符の連続と音楽の違い」は演奏家のレベルにも言えます。 楽譜を間違えず弾いてるだけでは、音の模様が出るだけです。 楽器の扱い方に気をつけてるだけでは、美音が出るだけです。 そのレベルでは、音が音楽に変容しない。音楽が鳴らない。 「うまいけど、音楽性がない」というのはそういうことです。

「頭」レベルの鑑賞より上に行くには、純粋な心が必要です。 これが「心」レベル。理性を超えた、判る判らんを超えた、領域。 ここで始めて「単なる音」が「音楽」に変容してきます。 いわゆる一般的な「芸術鑑賞」といわれるのはこのレベルです。 このレベルになれば、ほとんどの音楽芸術を鑑賞できます。 しかしこれがゴールではありません。 じつは「頭」レベルと、「心」レベルは、 ベクトルが違うだけともいえます。 本質的にはそれほどレベルに段差がありません。 どちらも主観のレベル。まだスタンドアローンの狭い限られた世界。 檻とも言う。 好きとか嫌い、良いとか悪いとか、まだ主観が言えてるレベルです。 好感が持てますとか好きですとか言うのは勝手ですが、 本物の芸術は好きとか嫌いとか言われるために存在してはいません。 それを前にしたとき、それを好きとか嫌いとか言える立場に人間はもはやないんですから。 宇宙や地球は人間の好き嫌いで存在している訳ではないんですから。 ある種の芸術には、この「心」レベルでも足りません。 このレベルではブルックナーが鑑賞できません。 主観を脱却するメソッドが必要になってきます。 スタンドアローンではなくなにかのネットワークに接続して始めて 事が起き始める、流入流出が始まる。 そのネットワークとは何か。 自分をも俯瞰できるレベルへのゲート。 別の世界へのゲート。 目で見えない世界へのゲート。 深層へのゲート。 このブログの看板になってるイラストはその原型のイメージだって気付いた?

「共感覚が絡んだ集合的無意識通信による接続なしに、 音楽を聴いても、鑑賞した事にはならない」というのが ひとつの仮説です。 宇宙を音楽に翻訳するのが作曲家の満足。 音楽を再生させるのが演奏家とリスナーの満足。 音楽ホールは、ある種の神殿。ある種の教会。 鍵は「接続」です。 なにをどこへ接続するのか。 接続を確立させるには何が必要か。 神秘体験とか宗教体験ということであれば、 瞑想とどう違うのか。 正しく瞑想できる人は音楽鑑賞の必要はないのか。

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first posted: 2009-07-03 12:36:28
last modified: 2009-08-09 22:05:14