ブルックナー鑑賞には、ある種の共感覚が必要である。

という仮説。これは正しいかどうか。

音楽観賞には程度の差はあれ、共感覚のようなものが発生しないと成り立たない。 音をただの音として認識するに留まらず、それに美だのロマンだの感じるのは、共感覚と言えなくもないので、 音を聴いて色が見える共感覚をとりたてて「神が与えた才能」とか大げさに騒ぐのは何をいまさらという感じもします。 音を聴いて色が見えるとか、数字を見て色か見えるのは、共感覚の中で特殊なケースという程度の話では? みんな共感覚を使ってる。いまさら何をいっているのだ、ということになりませんかね。

その共感覚をブルックナーは持っていた。
その共感覚者であれば、ブルックナーを真に感知できる。
その共感覚が存在すると仮定して、
それを共ブルックナー感覚と呼ぶ。
これは神に与えられた感覚である。

なんてね。うーん、面白いけど。どうなんでしょ。

音楽観賞で、美しいと思う、何かの色や形を見る、何かを体験する、何かを知る、 という結果のレベルの違いは、共感覚の種類とかレベルの違いなのかどうか。

そうだと言ってしまえばそれまでかもしれないが、 そういうふうに言いたくないのです、なぜだか。 音楽により「根源的に救済される」感じとか、 「何かの答や意味を知る」感じとかってのは、 共感覚とかってレベルの話とは違うような気がする、なぜだか。

共感覚は単なる主観的知覚の話である。 音を聴いて音に対応する色がぱっぱと知覚されようがされまいが特に意味はない。 絶対音感と色聴が伴ったとしても、だからどうということもない。 絶対音感など子供ころから楽器をやっていれば誰でも身に付く。 絶対音感が無いと楽器のチューニングすらできない。 絶対音感は神が与えた才能とかトンデモ話に持ち込んだ似非ノンフィクション本がありましたけど。

最高級の音楽鑑賞では主観が消失する。 主観と客観の統一。 自我の境界が消失する。 どこまでが自我ということに意味がなくなる。 この時点で共感覚ではない。 主観を超越した絶対的な知覚が起こる。 シンクロニシティとも違う。 ある音楽を聴いて神に抱きかかえられる感覚を得たとき、 別の人も同じ感覚を得ているなら、 それは偶然の一致ではない。 ある意味、シンクロニシティの一種に見えなくもないが、 メタ言語が解釈されただけではないのか。 集合的無意識とメタ言語は関係しても、共感覚は関係ない。 音を聴いて安らぐのは共感覚でもないしシンクロニシティでもない。 最高級の音楽鑑賞では、 根源的で普遍的な智のような何かを直接的に感知し、 努力無く瞬時に理解するとういう現象が生じる。

音楽力とか音楽療法とかの話なら、 集合的無意識、仏教、メタ言語、神秘主義、という方面を避けて通れない。 音楽は何かということなんだから。数学、物理も絡んでくる。 大きすぎるテーマである。 「なんかよくわからないんだけど、なにかこう、じゅわっと答が現れるという感じ」を駆使しないと、 1を知るために10を知るというスピードでやっていたら、 こんなべらぼうな課題には、いくら時間があっても足りない。

共感覚とブルックナー感覚はまったく別なのか。 音楽に共感覚の話は持ち込まない方がいいのか。 なんか違う次元のような気もする。 自我と他我との区別が消失する。 主観と客観が渾然一体となる。自失現象。 だから共感覚とかのレベルの話ではないかもしれない。

それとも、音を聴いただけで神からの触覚を覚える共感覚、 音によりオーガズムやエクスタシーを覚える共感覚、 稀な「共ブルックナー感覚者」なのか、僕は。 だとしたら、いくらブルックナーのエクスタシーを他者に理解してもらおうとしても無駄じゃん。

topic:
first posted: 2009-06-21 21:53:54
last modified: 2009-06-30 14:24:06